日本古代史を楽しむ

2017年4月28日

昨年発表された天皇の「お言葉」を契機に天皇譲位論が具体的に法制化されようとしています。

確かに昔と違って「人間天皇」である以上、天皇の人間としての側面を直視しないわけにはいきません。年齢に伴う譲位の話は当然と言えば当然の話です。

 

以前から何となく「天皇制」については疑問と興味がありました。

世界にも類がない1300年以上も続く国のトップたる人で、しかもどの時代であってもあからさまに国民から否定されるどころか畏敬され続けた天皇という存在が気になっていたのです。

日本の歴史上、いかなる権力者も自らの権力をもって,又は武力をもって天皇を排斥することは出来ませんでした。織田信長がそうでしたし、GHQがそうでした。

自らは何の武力も持たず、何の権力をも持たずに1300年以上も国家の最高権威者として君臨し続けること自体が不思議としか言えません。

 

もともと天皇という言葉がいつ頃できたのか定かではありません。

大化の改新の頃からなのか天武天皇の頃なのか、いづれにしてもこの辺りで使われていたようです。

それまでは「大王」などと称されていたようです。

たとえば埼玉の稲荷山で出土した稲荷山古墳出土鉄剣に刻まれた文字には「ワカタケル大王」との表示が見えます。これは後の日本書紀の表現では雄略天皇を意味するとされています。

古代日本の事情を知ろうとするには日本書紀に頼らざるをえません。

それ以前の記録が残されてないからです。

 

ところが、この日本書紀なる書物が実は尋常な書物ではなさそうであることがわかってきました。

681年、天武天皇の命により編纂が始められたとはいえ、その後40年間にわたり永い時間をかけて誰が、なんの目的で書き残したものなのか疑問と言えば疑問です。

 

この疑問に真正面から挑んだ研究者がおります。既に亡くなられた上山春平氏です。

「正・続神々の体系」、「埋もれた巨像」などでこの時代の闇と疑問に挑戦されました。

その結果見えてきた世界はまさにミステリーと云えます。日本書記はれっきとした歴史書です。

そして歴史書なるものは常に勝者による記録です。勿論、日本書紀も例外ではありません。

 

では日本書紀に見える勝者とは誰なのか?それは壬申の乱を勝ち取った天武天皇であり、

その妻である鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)即ち持統天皇です。

天武天皇は兄・天智天皇の息子である大友皇子と戦ってこれを破り皇位を得ました。

持統天皇は夫の天武天皇亡き後、皇位を息子の草壁皇子に継ぐべくライバルである甥の大津皇子を謀殺し、挙句は草壁皇子が28歳で亡くなると、自らが天皇となり草壁皇子の息子である軽皇子(かるのみこ)を皇位につけるべく執念を燃やしました。

やっと軽皇子が文武天皇となりましたが、文武天皇も25歳で夭折したのです。

 

その後は、文武天皇の幼い息子、首皇子(おびとおうじ)を皇位につけるべく文武天皇の母、

即ち草壁皇子の妻を元明天皇として擁立し、更には文武天皇の姉、氷高皇女を元正天皇として擁立し、首皇子が成人するのを待って聖武天皇として繋いだのです。

 

この間の皇統継受の有様は尋常ではありません。強烈な執念が感じられます。

勿論、このようなことが持統天皇一人の意思だけで出来ることとは思えません。持統天皇と強い盟約を結んだと思われる藤原不比等という人物なしには理解できません。

 

正倉院御物一覧表に草壁皇子の佩刀があるそうです。

「黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのかたな)」といい、その由緒書には

「・・・草壁皇子が常に身に着けていた刀で、これを皇子は不比等に与えた。

不比等はこれを文武天皇即位のときに文武天皇に与え、文武天皇崩御の時はこれを不比等に与え、

不比等は亡くなる時に聖武天皇に与えたもの」とされているようです。

即ち、持統天皇の息子である草壁皇子からその息子である文武天皇に、

そして、更に文武天皇の息子である聖武天皇に皇位を繋ぐミッションを藤原不比等が担ったものと解釈できるのです。

元明天皇も元正天皇もそのミッションの協力者と云えます。

 

正倉院御物は聖武天皇の皇后である光明子によって東大寺に献納されたものです。そして,光明子とは藤原不比等の娘です。

この正倉院御物が日本書紀の一つの大きな謎を補う重要な証言者かもしれません。

こうして親から息子に引き継がれるという皇位の継承ルールが固められたとみることが出来ます。

万世一系と呼ばれる天皇制度にはこんな経緯があったようです。

それ以前の皇位継承パターンは父子相承というより兄弟相承の例が多いようです。

ですから兄の天智天皇から弟の天武天皇に継承されるのが普通だったのかもしれません。

 

持統天皇が亡くなったのは大宝2年(702年)です。それから約1300年が経っています。

今回の天皇譲位の話は先例として後世に残るでしょう。ただ、譲位,退位だけではなく女性天皇の話、皇統順位の話など議論すれば多くの話題があるでしょう。

 

しかし、これらの話は古代では当たり前に行われていたことでもあります。

天皇の歴史を調べることは、即ち日本の歴史を調べることです。

しかし、最近まで天皇の話は触れてはならない分野とされてきました。

日本最古の文書であり、日本最古の欽定歴史書である日本書紀については、書かれている内容がそのまま紹介されることはあっても、実は意外とその真否を含めた論考が進んでいないように見えるのはそうした理由があるのかもしれません。

 

今、自分は上山春平氏に触発されて古代日本の歴史に強く興味を持っています。

勉強すればその分見えてくるものもありますが逆に疑問も更に膨らみます。

「聖徳太子」とはいったい何者なのか?推古天皇は実在したのか?蘇我馬子は一体何をしたのか?

興味は尽きません。これからがますます楽しみです。