眞子さまご婚約!

2017年5月26日

2017年5月26日

今月5月17日は新聞もテレビも「眞子さま」の話でもちきりでした。

秋篠宮家の長女である眞子さまが大学の同級生と婚約されるとの話です。

どこの国でも同じで、皇室のおめでたい話題は無条件に社会を明るくさせてくれます。

3年ほど前に高円宮家の次女典子さまが出雲大社の神職である千家国麿さんと結婚された折、出雲の国譲りの話が持ち出され、それ以来の天皇家と出雲の神様との出会い!として話題にされた記憶があります。オオクニヌシの神話が千数百年の時空を飛んで現代によみがえるというホットな話でした。

 

眞子さまのお相手はいわゆる旧華族・貴族等の出自ではないようです。不思議ではないものの珍しいことと言えます。

思えば今上天皇が婚約された折、美智子さまが旧皇族・貴族の出自ではないとして当時随分と話題にされたものです。天皇家のお相手はいわゆる旧五摂家の出身者が多いからです。

5摂家とは近衛、鷹司、九条、二条、一条の各家柄であり、平安時代を摂政・関白として支配し続けた藤原一族の末裔です。天皇家は原則としてこの五摂家以外からは中宮・皇后を入れなかったとされています。

藤原一族とは大化改新の立役者中臣鎌足の息子である藤原不比等に繋がる一族です。

即ち、万世一系という日本の天皇制をいわば造形し、日本書紀を編纂し、大宝律令を制定し、ひょっとしたら聖徳太子像までも作り上げ、古代日本史の骨組みを作り上げたともいえる藤原不比等直系の一族です。

 

藤原不比等には四人の妻がおり、子供は四人の男子と四人の女子がいたとされています。

長女宮子は第一夫人蘇我娼子が産んだ子であり、文武帝の夫人となり、聖武帝の母となります。次女長娥子は長屋王に嫁ぎます。三女光明子は第四夫人橘三千代が儲けた子であり、聖武帝の皇后となって孝謙帝の母となります。

女子に比べて男子は四人のうち三人が737年ほぼ同時期に疫病で死んでいます。絶頂期にあった藤原一族を立て続けに襲った不幸に当時の世相は大騒ぎだったようです。聖武帝が東大寺を立て、世の平穏を祈ったのも肯けます。この時亡くなった藤原三兄弟のうち二男の房前を始祖とするのが藤原北家であり、この子孫に例の藤原道長がいます。

「この世おば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この歌で有名な人です。摂関政治の全盛を極めた人であり、権力をほしいままにした姿がよくわかります。

道長は6人の娘のうち4人を天皇の中宮・皇后として天皇家に嫁がせます。そして自らは摂政として権力を振います。更に、一条天皇に嫁いだ長女彰子(しょうし)の下には例の紫式部がおり、同じ一条天皇の中宮には姪の定子(ていし)がおり、その下には清少納言が居ました。まさに平安時代を代表する政治と文化が豪華絢爛たる様相を見せた時代です。

藤原道長以後も藤原一族による摂関政治は連綿と続き摂政・関白は5摂家以外からは豊臣秀吉・秀次以外には見当たらないようです。何世代にもわたり天皇家との血統を作り上げ、それを武器に日本の統治機構に永く君臨してきました。

 

太平洋戦争が始まる前の日本の総理大臣は近衛文麿です。5摂家の一人です。つい最近まで日本の統治機構の一翼に存在し続けた具体例の一つと言えます。

藤原不比等がなぜ天皇家との血統作りにこれほどまでに腐心したのか、そのヒントは彼がそれまでの歴史に学んだと考えられます。

 

その歴史とは大化改新で滅亡したとされる蘇我氏の事です。

蘇我氏は日本古代史の世界では悪者とされてきました。蘇我入鹿の専横を中大兄皇子と中臣鎌足が誅殺した事件、大化の改新がその象徴です。ただ、それまでに蘇我稲目、馬子、蝦夷の3代にわたって古い日本を近代化し、政治を刷新し、仏教を始め朝鮮半島の文化を摂取し、天皇家との血統作りも進めました。それは推古天皇、聖徳太子の頃の話です。

蘇我稲目は欽明天皇と結んで大臣として権力を振いました。その娘の堅塩媛(きたしひめ)は欽明天皇との間に用明天皇(聖徳太子の父)、推古天皇を儲けています。更に次女の小姉君(おあねのきみ)は崇峻天皇を儲けています。

さらに蘇我馬子の孫息子である石川麻呂は大化改新に天智天皇側近として参戦しております。

また、石川麻呂の孫娘に持統天皇がいます。こうして当時の蘇我氏は唯一の大臣一族として天皇家と深く結びつき自らの血族を増やしています。

実は藤原不比等の第一夫人蘇我娼子は蘇我馬子に繋がる一族で、石川麻呂の姪に当たる人物です。蘇我一族の血統は天皇家にも藤原家にも繋がっています。

 

「眞子」さまご婚約の話からえらく時代が遡ってしまいました。

天皇家の結婚話となるとお相手は誰でもいいとはいきません。過去の歴史があまりにも長く重いからです。いまどき、五摂家の話はともかく奈良時代に藤原不比等によって作られた天皇制を巡る仕組みは不易の慣習となって時を繋ぎ、歴史的事実として連綿と現代まで続いていると言えます。

この間、ヨーロッパでは当たり前の外国王家、皇族等との婚姻関係は無いようです。世界史的にも珍しいここと云えます。それだけ日本の皇統は閉鎖的であり定められた血統を守り続けてきたと言えます。

戦後に結婚した女性皇族7人はほぼ全て旧皇族、旧華族等といった旧家に嫁いでおられるようです。

このうち二人が旧5摂家です。即ち、近衛家であり、鷹司家です。

1300年も前の話が今現在も継続して伝わっていると言えます。

「眞子」さまのお相手は「湘南海の王子」として清新な印象を与える好青年のようです。

皇室の方々は我々のような一般戸籍がありません。戸籍ではなく皇統譜があります。皇統譜を離れ一般戸籍を取得されることとなる眞子さまには次の1000年に向けて、是非暖かく明るい家庭を築かれるよう願わずにはいられません。