甘樫の丘に思う

2017年10月27日

「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」

大食漢といわれた正岡子規はことのほか柿が好きだったようです。

ただ、あの法隆寺を語るにはいささか場違いの感じさえする一句です。

でも、臨場感のある妙にリアルな一句です。

先月、9月下旬に学生時代の友人3人で秋の古都奈良を旅しました。

奈良時代に大陸から伝わったという柿の実は奈良の都に似合います。ところどころで色づいて美味しそうでした。

奈良を旅するのに外せないのが斑鳩の里であり法隆寺です。

法隆寺に代々続く宮大工である西岡常一氏の書物(「木に学べ」小学館)を今一度読み直し、西岡棟梁独特の語り口を反芻しながら法隆寺の建物群を宮大工という視点で改めて見直しました。

さらに、梅原猛氏の書物(「隠された十字架」、「塔」集英社)を読み直し、聖徳太子の霊を閉じ込めたとされる法隆寺をじっくりと、なかでもギリシャからシルクロードを通って伝わったという中門のエンタシスの姿をしみじみと眺めました。

西岡棟梁の家には先祖代々つながる家訓があるそうです。これは文字にはされず代々、次の棟梁となる人に口伝として伝えられてきたものだそうです。

その一つに「堂塔の建立には木を買わず山を買え」というのがあります。木は育った場所によってそれぞれクセがあり、このクセを見抜いて木組みをすることが肝要で、木のクセを知るには山全体を買い、木が育っていた環境に応じて木の特徴を生かして使え!というものです。今では実行できそうもない壮大な発想です。

さらに「百工あれば百念あり これを一つに統ぶるが匠長が器量なり」とあります。

棟梁の使命は多くの職人の心を一つに統ぶることにあり、この使命が果たせない人は棟梁の資格がない。「謹みおそれ匠長の座を去れ」とあります。改めて心すべきリーダーとしての真摯な心構えです。

こうした代々にわたる棟梁たちによって法隆寺は1300年にわたり維持され、引き継がれてきたと言えます。法隆寺が世界文化遺産であるということは、この建物を維持管理してきた、こうした宮大工の人々にもその栄誉が及ぶべきです。

その宮大工の西岡棟梁も既に亡くなりました。棟梁が繰り返し言っていた言葉があります。「技術は進んだが技能は滅んだ」と。これは建築であれ、農業であれ、工場現場であれ等しく言えることです。技術が進むということは反面、現場で考え、工夫し、学ぶという人々の身に着けた技能が重視されないということです。匠の技は要らなくなるということです。

現実の社会事情に照らして已むおえないとはいえ西岡棟梁の嘆きに自分も同感します。

今回の旅の目玉は秋の明日香村をゆったりと巡る事でした。なかでも注目のポイントは明日香村にある甘樫の丘に登る事でした。

甘樫の丘とは645年大化の改新で滅亡した蘇我氏一族の拠点となる場所です。

日本の歴史がようやく記録の上で形になって現れるのは6世紀の頃からでしょう。

継体天皇、欽明天皇の頃と言っていいでしょう。

欽明天皇と深く結びついた蘇我稲目は娘の堅塩媛(きたしひめ)と子姉君(おあねのきみ)を天皇に差出し、堅塩媛は用明天皇と推古天皇を産みます。小姉君は崇峻天皇を産みます。こうして稲目は天皇の外戚となって権力を一層強めます。また、大陸の文化である仏教を受け入れ大臣として権勢を振います。

稲目の息子が蘇我馬子です。

馬子は推古34年(626年)76歳で死したとされますから、稲目をついで大臣になったのは若干20歳そこそこかもしれません。50年以上も大臣の地位にあって、その間、政敵であり仏教導入に反対する物部守屋を誅殺し、娘の河上娘(かわかみのいらつめ)の夫である崇峻天皇を殺害し、仏教を奨めて飛鳥寺を建立し、さらに推古天皇を押し立て、厩戸王子(聖徳太子)を摂政として隋との国交も進めます。

憲法十七条も冠位十二階も教科書等で言われるように、一人聖徳太子だけの実績とは思えません。憲法十七条はいわば役人の服務規程といえます。冠位十二階は司法行政等にかかる人々の身分または職位の定めとも言えます。宮中にかかる重要な定めを摂政である聖徳太子一人が決めたとは思われません。当時、倭国の支配者として絶大な権力を持っていた蘇我馬子も大きく関わっていたと思われます。

馬子の息子が蝦夷であり蝦夷の息子が入鹿です。

蘇我入鹿の代になると蘇我氏一族の運命は一挙に暗転します。「おごれる者は久しからず!」と云います。皇極女帝の寵愛を過信したのかもしれません。入鹿には驕りも生じ、スキもあったことでしょう。入鹿は王族の一人である山背大兄王子一族を罪なくして皆殺しにします。その皆殺しの現場が斑鳩宮であり聖徳太子が建てた旧法隆寺です。古人大兄王子擁立を狙う蘇我一族にとって山背大兄王子は皇位継承に邪魔だからというのが理由とされています。

山背大兄王子殺害は643年のことです。そして起きたのが645年の乙巳の変(大化の改新)です。

当時最高の権力者であった蘇我入鹿が宮中、それも皇極帝の面前で、しかも皇極帝の長男である中大兄皇子によって惨殺された!との報を受けた父親の蝦夷は自らの邸宅、武器庫など甘樫の丘にある建物群一切を焼き自らも生命を絶ちました。

このときに焼失を免れた国記、天皇記などの書物の一部が後日、古事記や日本書紀を記述する際の重要な資料になったと言われます。

古代日本史の上で初めて外交、内政、宗教、文化等あらゆる面で突出した実績を残した蘇我本宗家一族はこうして滅びました。その舞台が甘樫の丘です。

蘇我一族の無念の思いが込められた丘です。

甘樫の丘のすぐ南に石舞台古墳があります。これは後世、誰かによって墓が暴かれたもので、無残にも崩土が削り取られて晒し者のような姿で現在も放置されています。これは蘇我馬子の墓とされています。石舞台古墳に佇んで、その異様な姿に唖然としたものです。誰がどんな目的で行なったものか、なぞは解明されていません。

甘樫の丘に登ると目の前に明日香の里が一望に出来ます。大化の改新惨劇の現場である飛鳥板葺の宮が目の前です。飛鳥川の先には藤原京の跡が望まれます。遠くに聖なる三輪山が見えます。その手前に耳成山が、そして左手目の前に畝傍山が、目を転じて右手には天香久山です。大和三山が見事に見渡せて感激です。後の時代に万葉集で数々の歌に詠まれた山々です。滅び去った蘇我一族の栄華が偲ばれます。蘇我入鹿もこの丘に立って明日香の里を見下ろしながら様々な策を練ったことでしょう。

蘇我入鹿に一族23人を皆殺しにされた山背大兄王子とはあの聖徳太子の長男です。推古天皇の後継ぎと目され、仏教に厚く帰依し、平和を深く望む仁徳の人だったようです。この山背大兄王子一族を殺した人々は聖なる聖徳太子からの怨霊にひどくおびえたことでしょう。この為に建てられた寺が現存する法隆寺であるとの見方があります。

旧法隆寺は670年に焼失したとされています。現在の法隆寺夢殿近くで発掘された若草伽藍がその跡地とされています。では、711年に再建されたという現在の法隆寺は誰が何を祈願して建てられたものか?それがどうもはっきりしません。

ただ、710年には平城京への遷都が行われており、藤原一族の氏寺としての興福寺が建てられています。712年には古事記が完成しています。これらの大事業を遂行したのは藤原不比等です。従って、法隆寺再建も藤原不比等が関わっていないはずはありません。

蘇我入鹿をいわばそそのかして山背大兄王子殺害を策謀し、その上、王子殺害を実行した蘇我入鹿をも殺害し、その入鹿殺害の当事者である中大兄皇子を押し立てて大化の改新に及んだ陰の立役者であり陰の策謀家が中臣鎌足とされています。

鎌足の息子である藤原不比等の一族は、その後栄華を極めながら、その直後に見舞われ続けた絶望的な不幸に、ただただ聖徳太子の怨霊の陰を見て恐れおののいたことでしょう。特に藤原不比等の娘であり文武天皇夫人の宮子、同じく聖武天皇皇后の光明子など女性の皇族たちは太子一族の怨霊を鎮めるためにあらゆる手を尽くしたことでしょう。法隆寺の歴史にはそうした怨霊恐怖の影が色濃く見られます。その証拠といえる数々の記録も見られるようです。

初めて登る甘樫の丘の上で斑鳩の里を遠望しながら、遥か1400年前に繰り広げられた阿修羅の人間模様に改めて思いを馳せました。