「万葉集」を学ぶ
2017年2月23日
「万葉集」はだれしも一度は耳にしたことがある日本最古の歌集です。
およそ1300年前、ここで活躍した歌人たちの両横綱と言えば額田の王と柿本人麻呂でしょう。これらの名前と共に思い出される歌があります。
“あかねさす、紫草野(むらさきの)ゆき 標野(しめの)ゆき
野守(のもり)はみずや 君が袖振る”
この歌は額田の王が、以前は夫であった大海人皇子からのふざけた親愛の振舞を優しくたしなめた歌であり、高貴な宮廷人たちの明るく素直な相聞歌として学校で学んだ記憶があります。
ただ、この歌の背景はそんなのんきな時代背景ではないことを最近の書物から改めて教わりました。即ち、これは次に続く21番歌と共に、後に起きる壬申の乱の前触れともいうべき応答歌と理解することが出来るのです。また、そうした解釈がこの歌をより深く理解することが出来るかもしれないのです。
言われてみれば当然の話ですが先人達の誰もそこまでは明確に言及していなかったようです。
最近の書物とは「万葉集難訓歌」(学芸みらい社)という大作で、著者は弁護士であり公認会計士である上野正彦氏です。
わが国にはあまたの万葉学者が存在し、万葉学という学問ジャンルが成立しているほど万葉集の研究は盛んに行われています。ただ、歌の意味を十分解読されないまま、いわば放置されたまま現在に至る歌が数多くあって、上野先生はその不合理さに義憤すら感じて独学で学び挑戦されたようです。
先日、2月10日に上野先生を当税理士法人にお迎えして勉強会を開き、貴重な苦労話を伺いました。
上野先生はいわゆる万葉学には素人といえ、逆にその強みを存分に発揮され、万葉学の先人達による先入観に左右されず、誤解もしくは曲解されたまま1300年近くも放置され続けた万葉歌人達の無念を晴らすべく努められたようです。
知られているように万葉集は697年、文武天皇に譲位し、太上天皇となった持統太上天皇の発案で編纂が始められ、100年ほどの後、大伴家持によって完成したものとされています。従って、万葉集には持統女帝の意向が色濃く反映しているはずです。そこが単なる古くからの歌集というだけでない、重要な意味を持つ点です。
持統天皇とは、夫であった天武天皇(=大海人皇子)亡きあと、我が息子の草壁皇子を天皇の玉座に着けるべく奮闘し、草壁皇子亡き後は690年に敢えて自らが天皇となり、草壁皇子の息子である軽皇子(=文武天皇)を玉座に着けるため異常な執念を燃やした人です。
その間に草壁皇子のライバルと恐れた大津皇子を謀殺し、手段を選ばず、自分の血族の皇統を存続させたとみられる、恐るべき強い意志と執念を持った女帝と言えます。
持統女帝亡きあとは更に複雑で、苦労して引き継がせた文武天皇が夭折した後は、その母である皇女を元明天皇として擁立し、母の次には姉である氷高皇女を元正天皇として擁立し、ひたすら文武天皇の息子である首(おびと)皇子を聖武天皇として擁立すべく阿修羅の動きが続けられるのです。
この間の皇統を巡るめまぐるしさと異常さは想像を絶するものがあります。とても尋常な神経で理解できる動きではありません。
さらに見れば天武天皇、持統天皇を中心とする国造りの物語を半ばでっち上げ、自らの正統性を確立し、これを唯一の歴史として人々にあまねく植えつけるべく編纂されたのが古事記、日本書記であったと見る見方があるのです。
天をも恐れぬ作業と云っていいようなこの大仕事を成し遂げた人物がいたようです。
持統天皇の腹心であり、天才政治家と言える藤原不比等という人物です。この人物が作り上げた万世一系なる天皇制度と藤原摂関家による律令政治体制が延々、明治維新までおよそ1200年近く続いてきたことになります。
まさに驚くべきことです。
ちなみに藤原不比等は日本書紀が完成した720年に死去しております。
最近、藤原不比等を描いた歴史小説「比ぶ者なき」が出版されています。どんなミステリー小説より面白いストーリーです。しかも、これがひょっとしたら日本の本当の歴史だったかもしれないのです。
思えば昭和50年「続・神々の体系」で上山春平氏が藤原不比等の恐るべき存在を指摘して以来40年以上が経ちますがまだ、日本の歴史が見直されたとは聞きません。
蘇我馬子を経て天智天皇から聖武天皇に至るあたりの日本の歴史はちょうど日本の骨格が作り上げられた時代です。そして、この時代こそまさにミステリーに満ち溢れております。万葉集はまさにこの時代に詠み続けられたものです。
冒頭に掲げた“あかねさす、・・・・”の歌は、4500首もの多くの歌が収められている万葉集の中で初めの20番目に置かれたものです。明らかに編纂を始めた持統太上天皇が意図をもって並べたものと理解できます。
夫である大海人皇子と夫の兄である天智天皇の後宮に侍る宮廷歌人額田の王との秘めやかな恋の歌などとして持統太上天皇がとりあげるはずはありません。
671年、天智天皇亡き後、その息子である大友皇子の軍を相手に壬申の乱を戦い、夫の大海人皇子と共に戦って勝ち取った皇位の正統性を標すべく万葉集20番目の歌として、21番目にある夫の返歌と共に万葉集のこの位置に置かれたものと解釈することがより落ち着きを得られます。
その意味で上野先生の解釈は十分に納得が出来ます。
“春すぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山”
この歌は持統天皇の作とされています。かの女帝の人物像を知るにつけ歌の解釈もより深く面白くなってきます。
10年ほど前、知覧を訪れた折に意を決して特攻記念館を見学しました。そこで見た学徒出陣の特攻兵の手記に強い衝撃を受けたものでした。その手記の中に「万葉集」なる言葉を見つけ前後を読んでみました。
明日の出撃を前に今「万葉集」を読んでいるとの記述です。不憫さに胸が打たれると同時に「なぜ、ここで万葉集!?」との強い疑問が沸いたことを覚えております。
賀茂真淵、本居宣長たちに再発見されて以来、万葉集は国学に利用され皇国史観の中で解釈され続けられたようです。当時の軍人には士官学校出身であれ学徒出身であれ、万葉集は特別な書物であったようです。
彼らがどのような思いで万葉歌人たちの世界に思いを馳せていたか?知るすべもありませんが、改めて万葉集と向き合うとき、かつての人々が万葉集に寄せたそれぞれの思いもまた、重い歴史です。
万葉集は梅原猛氏が「水底の歌」で柿本人麻呂論を展開され、疑問を提示されながら言われたように、まさに「これから」なのかもしれません。


